会社案内

134年の歩み

鍋林株式会社 134年の歩み

長野県のほぼ中央に位置する松本市は、国宝松本城を中心に城下町の風情が残る街並みが広がっています。西にそびえる北アルプス連峰や、東に望む美ヶ原高原など日本を代表する山岳都市としても知られ、多くのアルピニストたちの玄関口として栄えてきました。市街地には周囲の山々に端を発する清らかな水が流れ、築城400年を越える松本城や、旧開智学校(重要文化財)といった歴史的建造物が点在し、まちが歩んできた歴史や文化を今に伝えています。鍋林はこの地に産声をあげました。

前史・創業~

鍋林が創業するまで

01
松本城

鍋林の創業家である島家の始まりは、室町時代の文明年間(1460年代)まで遡り、かつては地方の豪族、武士であったとされています。
松本藩とのかかわりは江戸時代の寛永年間(1630年代)の頃からと伝わり、初代当主・島林右衛門高信が勘定所物書役や鋳工師目付として、また、6代当主・島林蔵が金物御用達(鋳造業が主体)を命ぜられたとされます。社名「鍋林」の由来もこの頃に端を発していると思われます。金物を中心に商売を行っていたことから、当時の屋号は「鍋屋」。当主は代々、林蔵や林右衛門を襲名していたことから、地域では「鍋屋の林蔵さん」、「鍋屋の林右衛門さん」と呼ばれるようになり、いつしかそれを短縮して「鍋林さん」になったのだとか。

江戸から続いていた松本藩の金物御用達も明治維新を機に役割を終え、その後、市中での商いも明治21(1888年)年、中心市街地の大半の町家を焼失するという“松本の大火”により、鍋林の歴史は一旦リセットされることとなりました。

創業

02.2
島 孝三郎と家族、店員(大正11年元旦)

火災から3年後の明治24(1891)年、島家14代当主・島林蔵が「鍋林商店」を創業。それまで商いの中心だった金物だけでなく荒物、雑貨に加え、薬種の取扱いを始めました。これが鍋林の現在の基礎です。
林蔵は、薬種の取扱いを本格的に始めようと、長男・孝三郎を薬種商へ丁稚奉公に出す一方、林蔵自身は薬種商鑑札許可を取得しました。

(城下町に京都の文化を)
林蔵は、金物商として、飾金具などを仕入れるために京都へ出向く際、松本近在の農家から繭を集めては京都へ持参し、帰路には雛人形を仕入れて帰り、松本・高砂通りの現在鍋林本店在所にて商売を始めました。松本市の高砂通りは現在、人形の町として知られており、林蔵の行動が松本の文化の一翼も担っていたと思われます。
また、進取の気性に富む林蔵は京都からの帰路、理髪店でちょんまげを切った姿で帰宅。当時で言うハイカラなヘアスタイルで道行く姿は、町の話題になったというエピソードも残っています。

商売の多角化

歩兵第50連隊(郷土出版社『思い出のアルバム松本』より)
歩兵第50連隊
(郷土出版社発行『思い出のアルバム松本』より)

明治33(1900)年頃からは取扱品目が増え、化学薬品(試薬)のほか工業薬品や写真材料、物理化学器械、ガラス器、染料、塗料、度量衡器・計量器と広がりました。
薬種商の修行で実務経験を積んだ孝三郎が戻り、同38(1905)年、2代目店主として家業を継ぎました。 日露戦争後の同40(1907)年には松本に歩兵第五十連隊が設置され、新たな取引き先となりました。販売先も官庁や学校などを中心に、県蚕糸試験場や県工業試験場、片倉組松本製糸場など、地域の主力産業へと拡大。
取扱い品目が増えたのは、お得意先が増えるにつれ、それぞれの要望に1つひとつ応えた結果でした。誠実な対応や利便性、積極的な取組みの姿勢が評価され、今日の多角化につながる礎を築きました。

16歳の社長が誕生。「卸売業は情報産業」の始まり

配達の途中、上高地焼岳小屋で一休みする島 幸太郎(昭和8年8月)

昭和3(1928)年、孝三郎は50歳の若さで急死。この時、長男の島幸太郎はわずか16歳でした。松本中学を中途退学し、家業を継ぐこととなります。さらに、それから間もなく祖父・林蔵と母を相次いで亡くし、幼い妹弟6人や従業員を抱えての厳しい船出となりました。
ところが、バイタリティのあった幸太郎は、営業地域を地元松本だけでなく隣接する大町や小谷、木曽、諏訪、伊那へと販路を拡大。取引き先が増え、取扱い商品も多様化する中で「卸売業は情報産業である」という信念を見いだし、卸業経営の原点はお得意先と仕入れ先とを必要な情報でつなぐ「縁結び」であると確信。当社の普遍のテーマが誕生しました。

誠実な取引で信用を得て、取引が拡大

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買出しの人々で満員の列車(毎日新聞社提供)

昭和のはじめには金融恐慌、世界恐慌と経済不安に見舞われたほか、日中戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争と続く戦時経済体制の中、県内には軍需産業や生活基幹産業などの企業疎開が増えました。昭和電工や日本ステンレス、三菱重工名古屋航空機製作所、宮田製作所、富士電機製造、石川島芝浦タービンなどのほか、医薬品業界では千代田製作所、帝国製薬、協同薬品などがありました。これらの企業との取引きに成功し、それに伴う取扱い商品の拡大が飛躍の足がかりとなりました。
また、戦時経済体制の時代は原料・資材の供給は軍需産業が優先で、闇値の横行も目立っていました。しかし当社は戦中戦後を通し、一貫して従来からのお客様への安定供給を最優先。闇値には一切応じませんでした。これが取引きの信用を増大し、今日の発展へとつながっています。

戦後~高度成長期

戦後―国民の健康を守るために法人化

設立当時の本社(昭和24年)

幸太郎は「敗戦国民として償いは当然の義務。それを果たすためには国民の健康が不可欠であり、復興のための生産資材が必要である」と考え、終戦直後の8月20日から25日に東京をはじめ、名古屋や大阪の仕入れ先を訪問し、逸早く仕入れ活動を行いました。
さらに、自ら何をすべきか模索し、新しい時代の変化に対応し、より一層の発展を図るために個人経営の商店から脱皮して法人化を決意する。そこで行ったのは、昭和23(1948)年4月8日の株式会社設立登記でした。

日本一の企業を目指して拠点を拡大

開設当時の東京出張所

医薬品や工業薬品、塗料、染料、写真用品の商社として県内を中心に営業活動を行っていましたが、昭和23(1948)年11月に県外拠点として初めて東京出張所と新潟出張所を開設します。
昭和30(1955)年には県内初の営業所を長野市に開設。その後山梨県甲府市、辰野、伊那をはじめ、関東甲信地区と大阪に14の営業拠点を持つまでに拡大しました。昭和39(1964)年から45(1970)年にかけて、配送センターも併設することによって、品切れの防止や在庫の適正化、仕入れ費用のコストダウンへとつながりました。
事業の多角化に伴い、昭和38(1963)年には商号を株式会社鍋林商店から鍋林株式会社へと変更。分社化も進み、一般医薬品・雑貨は「ナベリンファーマシー」、カラーフィルムの現像焼き付けは「中部カラー」、防疫薬品・ワクチン製剤は「ナルコ薬品」などを設立。全14社のグループ企業となりました。

業界団体の組織に参画し、自社と業界の発展に貢献

ちどり会研修会(昭和31年5月20日 京都)

昭和27(1952)年、戦後の配給統制撤廃を機に、医薬品業界も自由経済となります。メーカー各社は設備投資を重ねて大衆薬を大量生産・販売し、販売競争が激化。市場の価格の混乱を招きました。それまでメーカーと卸業とが一体化していた組織から、卸業は自主的な組織「日本医薬品卸業連合会」を発足。同じ頃、長野県薬品卸協同組合も設立されました。
また、医薬品卸業が受注と納品だけに留まらず、商品知識・販売促進・経営についても相談できる主体的な卸業に進化できるよう、相互の意見交換や、先進的な欧米企業の視察、経営の合理化などの勉強会を開く経営合理化研究会「ちどり会」を結成。中でも経営合理化に積極的だった企業が「ALS(アルス)会」を発足し、当社はいずれの会にも参画しました。

自社の経営合理化を推進

事務機器が導入されシステム化された当時の事務所内

経営合理化を進めるため、昭和29(1954)年頃から社内の事務作業の効率化が始まりました。昭和31(1956)年には手書きだった帳票事務にNCRの51型会計機を導入。ファイリングシステム(レミントンランド社)、売掛金・買掛金の記帳、カナ文字タイプ(ヘルメス)と、機械化を進めました。当時は画期的なこととして業界紙でも取上げられるほどでした。
課題だった配送は、配達コースによって時間を定めて運送するという、当時としては革新的な「ダイヤ配送システム」を構築しました。
また昭和33(1958)年には予算制度を発足し、利益を記録法で管理。販売データもセールスマン別・種目別にして売上げを促進しました。この結果、売上高は昭和29(1954)年度の5億1000万から、昭和37(1962)年度は18億9000万と9年間で3.6倍となりました。

先駆的な海外視察で順次欧米の方式を導入

松本配送センター

昭和30年代には他の産業界と同じく医薬卸業界も先進技術を学ぶべく欧米視察を始めました。「卸機能の追求」を目的に、昭和36(1961)年のヨーロッパを皮切りに、以後10年にわたり欧米へ18回の視察を実施。コストダウンと利益確保のため「配送センターの導入」「コンピュータの導入」、営業コストを低減する「機能別営業費会計システムの導入」を実践しました。その後、当社では、倉庫内で効率良く作業ができる「配送センターシステム」を導入。「配送センター」というネーミングは業界初で、全国からの視察も相次ぎました。

昭和後期~100周年

お客様の要望にスピーディーに応じるため事業部制を推進

会社組織図(昭和47年8月)

第二次石油危機以後の厳しい経済環境の中、変化に対応できる体質と、お得意先の要望に応える仕組み、コンピュータを中心とした社内の合理化を推進しました。 営業本部体制の充実や、積極的な市場開拓、新製品の情報収集のほか、第一線営業マンの研修に注力する人材育成のための研修室を設けました。
さらに、素早い戦略判断による業績の向上を目指し、独立採算制の事業部制を打ち出し、昭和56(1981)年には医薬品事業部、化成品事業部、昭和61(1986)年には食品事業部を発足しました。 平成5(1993)年には医薬品事業部ヘルスケア営業本部をヘルスケア事業部、医薬品事業部を医薬事業部、園芸部をアグログリーン事業部、写真部をTIS(テクノイメージングシステム)事業部、コンピュータ営業部を情報システム事業部に名称変更。
平成18(2006)年には医薬原料事業部、在宅医療・介護事業部、新規開業・医療関連事業部、海外事業部を設立しました。

アジア地域への海外展開

通関を終え、お得意先へ向かう輸入原料

昭和40(1965)年頃、台湾を中心に海外取引きを開始。当初は得意先企業の海外進出に伴うスポット的な事業でしたが、お得意先からの要望に応えるために情報収集や調査、商品開発に努めるうちに貿易事業が拡大しました。
平成8年(1996)年、台湾に駐在員事務所(翌年には台湾支店に)を開設、平成9(1997)年には合弁会社「久泰工業股份有限公司」を設立しました。
平成12年(2000年)には化成品事業部がフィリピンで長期駐在を開始。 現在では上海、深セン、大連、天津に拠点を持つ「鍋林(上海)貿易有限公司」のほか、フィリピン、タイランド、マレーシア、インドネシアに拠点を置いています。
急速に拡大するアジア市場を読み解きながら、情報や商品企画などの提案も行い、当社の柱として成長しています。

時代を先取りし、こだまのように応えるIT化の推進

発伝インプット風景

昭和50(1975)年に全社オンライン化システムNACOS(Naberin Automatic Computer System)の準備を開始し、昭和54(1979)年までに第1期システム構築を完了。 翌55(1980)年には在庫管理や売掛管理、発注など、受注から配送まで、処理を分散し、本社で一括管理するシステムを導入しました。
昭和56(1981)年には仕入れ先の武田薬品工業株式会社とオンラインで結ぶ自動発注システムを導入。業界では画期的なこととして注目されました。
昭和60(1985)年には営業マンまたはお得意先が携帯端末で発注できる「Echoシステム(エコー=Electronic Communication Network by Handy Operations)」を導入。「こだま」のように応えられるように、とのネーミングが付けられました。
得意先支援活動の中核となる「VAN(Value Added Network=付加価値通信網)」への基盤となりました。

物流に留まらない付加価値の創出

自社ブランド「ホシクマ」

当社は、単なる物流業ではなく情報や新商品、その他のサービスを提供することで優位性を見いだしてきました。
昭和54(1979)年には食品部に研究室を設置。各営業所に試作室を設け営業マンがお得意先ごとの味づくりの開発にも着手しました。食品添加物の小分け業務は、昭和56(1981)年のPB(プライベートブランド)品「ホシクマ印」の製造へと発展しました。
化成品部門ではIC基板用の洗浄ラインを設置し、医薬品部門では昭和56(1981)年に医薬品や業界に関する情報提供サービス「DI(Drug Information)室」を設けるなど、お得意先の企業にとってプラスとなる付加価値の提案に努めました。

100周年~近年

100周年を機にさらに進化

島 孝一

創業100周年を1つの通過点とするべく経営陣の若返りを図りました。昭和61(1986)年には、58年間鍋林を牽引してきた第3代目・島幸太郎から第4代・島孝一(社長としては2代目)に。3年単位の中期経営計画を、2期6年分を総合する「長期経営計画」としました。
昭和63(1988)年から平成5(1993)年までの「第1次長期経営計画」は「魅力ある企業を目指すECHO PLAN PART1」。保管配送施設の充実や積極的な海外視察研修、女性社員の職域拡大、育児休業制度の開始、外国人社員の採用などを行いました。昭和63年度の売上高は535億円と年商500億円企業に成長を遂げました。

積極的に対外的な活動も

上高地開山祭でのアルプホルン演奏

平成3(1991)年、これまでの当社の歩みをまとめた冊子「ふれあい運んで100周年(新世紀への飛翔)」を刊行しました。同年には、社員の日頃の創作活動を発表する場「鍋林創作展」を創設し、以後毎年開催されています。また、100周年の記念祝賀パーティーの計画を取りやめ、その費用を「社団法人 青少年育成国際会議」に充てた「鍋林基金」を創設しました。
平成4(1992)年には「なべりんアルプホルンハーモニー」を結成し、平成5(1993)年の信州博覧会や平成10(1998)年の長野冬季オリンピックで演奏しました。また同オリンピック、パラリンピックでは専用車運転ボランティアに参加、「2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野」にもボランティア参加しました。
平成9(1997)年末に名誉相談役だった島幸太郎が逝去。翌10(1998)年に、東京芝増上寺にて社葬が行われました。同年、会社のWEBサイト立ち上げ、インターネットによるオンライン業務サービスもスタートしました。

ISO9002、ISO14001の取得

島 宗弘 / 藏井 和義

平成12(2000)年、島孝一から島宗弘へ社長交代。
品質(サービス)の向上を目指し、「ISO9002」を取得しました。(現在はISO9001)全社6事業部、26の広域拠点・配送センターで一括に認証取得した国内初の商社として注目されました。平成13(2001)年には環境ISOといわれる「ISO14001」を取得。廃棄物の分別収集をはじめ休憩時間の照明消灯、ノーカーデー実施、緑化による環境貢献なども行っています。
平成21(2009)年、藏井和義が社長に就任。海外事業へのより一層の注力とともに、コンプライアンスの強化など、社内体制の改革が進みました。

顧客支援システム

平成26(2014)年、島宏幸社長へと経営が引き継がれ現在へと続きます。経済のグローバル化、デジタル化時代にあって、これまで培われてきた当社の顧客第一主義の姿勢の深化が図られています。
お得意先に満足していただけるサービス・仕組み・商品の提案のための顧客支援システムも充実してきました。自社システム「打ち出の倉庫」は、当社独自の自動補充発注&遠隔預託在庫システムで、IT&ネットワーク技術でお得意先の在庫管理を当社が肩代わりするソリューションです。
また、医療機関や調剤薬局向けの薬品在庫管理・発注システム「ODSS(オンデマンドサプライシステム)」は、ASP(Application Service Provider)サービスによるレセコン連動型のシステムで、お得意先の日常的な仕事をサポートし、お得意先の立場に立った情報提供をしています。

200、300年と続く企業へ「エコービジョン2029」

新長期経営計画「エコービジョン2029」は鍋林株式会社がどの様にあるべきか。
予測される環境変化を踏まえて、それに適応していくために何をすべきかを示した指針であるとともに、
盤石な経営体質を維持成長させるための各部門の戦略決定における基軸であり、全構成員の拠り所となるものです。